小学生のとき、座布団のティンパニで「運命」全曲を演奏しました……。

ソリスト植松透さんに聞く
(2010年3月6日 第25回定期演奏会プログラムより)

 

ジョリヴェの打楽器協奏曲というのは、どんな曲なのでしょうか。

 このジョリヴェの協奏曲は、クラシック音楽の範囲にとどまらない曲です。現代音楽に、当時パリで流行していたジャズの要素や、アフリカの民族音楽のエッセンスなどいろいろなものを取り入れています。クラシックだけでなくいろいろなジャンルの音楽に浸透している、打楽器というものの特性に合わせた多彩な作品になっています。もともとはパリ音楽院の試験のために作られた曲です。オーケストラと一緒に演奏される機会はほんとに少ないですけれど、ジョリヴェ自身が編曲したピアノ伴奏版も、なかなかいいんですよ。

 もう20年も前になりますけれど、この曲を大学院の入学試験で演奏したことがあります。今と比べて、20代のころは体力があって元気だったなと思いますよ。ああ、こんなに難しい曲だったかなと思いました。

 第1楽章は、ティンパニが主役ですから、クラシック音楽の正統的な楽器を使っているわけです。ただ、リズムはクラシックではあまり使われない5拍子で、とってもリズミカル。古典音楽ではふつう、2つのティンパニをソとドの4度に調音するのがふつうですけれど、この曲の場合は、4台をラ、シ♭、ド#、レ#と近くにある音4つに合わせています。といってもメロディックではありませんね。
 第2楽章はジャズみたいですね。ジャズでよく使われるヴィブラフォンが活躍します。そうして、アドリブの要素がかなりある。即興演奏的な部分があちこちにあるんです。インスピレーションを大切にした音楽です。決められた綺麗さではなくて、偶然の美があるような。第1楽章の決然としたリズムに対比させているところも、ジョリヴェの独創性を感じます。
 第3楽章は、いちばん現代音楽的でしょう。6/8拍子のリズムに流れにのせて、軽快でコミカルに進行します。第3楽章にこういう音楽を置いたのは、古典の交響曲のスケルツォを意識してのことかもしれません。
 第4楽章には、アフリカンの音楽があります。またトロンボーンやサクソフォンのソロをお聞きになるとわかるように、ジャズみたいなところもある。ジャズといっても、ソフィスティケートされたものではなくて、初期の原始的なエネルギーを備えたジャズですね。

 打楽器とオーケストラとの協奏曲というのはあまり多くありません。ただ、20世紀というのは打楽器音楽の時代だと思うんです。メジャーな音楽でもアングラの音楽でも、打楽器が重要な位置を占めるようになった。ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、当時の人に音楽だと受け取られなかったほど衝撃的でした。そこで力を発揮していたのは打楽器です。20世紀、協奏曲ということではなくて、ほとんどのジャンルで打楽器が活躍するようになった。

 アメリカの黒人音楽からジャズが生まれ、またアフリカンミュージックや民族音楽、フォーク音楽が、注目を集めた時代です。アジアのガムラン音楽やインドの音楽にも光が当たった。今はポップスやロックが全盛の時代ですけれど、これは19世紀にはなかった音楽ですよね。それらすべての音楽の中で、打楽器はたいへん重要な役割を果たしています。

 ジョリヴェは打楽器のことがよくわかっていますね。ジャズそのものでもないし、民族楽器を使っているわけではありません。でもヴィブラフォンやトムトムなど、クラシックとしては異質な楽器を自分の音楽の中に取り込んで、これまでと違った可能性を見いだしています。そこが斬新でうまいところだと思います。第1楽章では、音量も表現力も大きいティンパニと、繊細な音を出すウッドブロックとを対比させています。ウッドブロックをこんな風に斬新に使った人は、ジョリヴェ以前にはいなかったでしょうね。

 
音楽に目覚められたころの思い出を聞かせてください。

 父が声楽家で母がピアノ教師でしたから、生まれた時から、いい環境だったといえるでしょう。小さい時から、うちの中にはいつも音楽が流れていました。5つか6つのときにピアノを習い始めましたけれど、親にも音楽家にしようという気持ちはなくて、いつも自分の好きな曲ばかり遊びで弾いていました。

 小学校4年の時、父がレコードを買ってくれました。「運命」と「第九」、カール・ベーム指揮、ウィーン・フィルのLPでした。これはすごかった。オーケストラってすごいもんだなって初めて知りました。ほんとにレコード針で溝がすり切れるまで、明けても暮れても聴いていましたね。その後もベーム、ウィーン・フィルは好きで、いろいろなレコードを聴きました。「エグモント」序曲だったかな、傷のついたところで聞こえるプチッっていう雑音の音程まではっきり憶えています。今でも生で演奏するときその雑音がないので、何かもの足りない気がするんですよ。

 父が「運命」「第九」のレコードといっしょに買い与えてくれたスコアを、レコードを聴きながら穴の開くほど見つめました。それまで楽典なんてぜんぜん勉強したこともありません。でも、ヴィオラのハ音記号は、ピアノのト音記号とヘ音記号の間なんだなってだいたいわかる。わからないのはクラリネットでした。移調楽器というのがあることを知りませんから、どうして調が違うんだろうと納得がいかなくて、あまり興味が持てなかったですね。フルートやオーボエのパートは、「運命」の第2楽章などゆっくりのところを、学校で習っていたリコーダーで吹いてみたりしました。特にオーボエの音色が大好きになりました。実はこの第2楽章、ピアノの発表会でも弾いたんです。大好きでした。

 ティンパニの音も大好きでした。何しろ音が2つしかないから簡単でいい!座布団を2枚、並べて置いて、菜箸を両手に握って叩きました。楽譜はスコアしかありませんから、3つ下の弟にページをめくらせて、「運命」のレコードに合わせて全曲を叩くんです。「第九」の第4楽章には、ほかにもいろいろな打楽器が登場してくるので、どんな楽器なんだろうかと不思議でした。その後、小学校の間に、ベートーヴェンの交響曲のレコードを次々に買ってもらって、弟に楽譜めくりを手伝わせて、第1番から第9番まで、すべて座布団ティンパニで演奏しましたよ。

 
なぜ打楽器を選んだのでしょうか。

 高校に入学して、吹奏楽部に入ろうと思いました。「オーボエが吹きたいんです」「よし。楽器は持っているのか」「いえ、ないんです」「それじゃあ、買っておいで」といったやり取りが先輩との間でありましたが、高い楽器を買えるわけもない。コンクールにも出たことのない弱小の吹奏楽部でしたから、オーボエなんかないんです。そこで、オーボエに劣らず好きだった打楽器を担当することになったんです。

 学校は都立立川高校でした。旧制府立二中の伝統を受け継ぐ自由な校風があって、吹奏楽部も、「俺たちの音楽になんで点数をつけるんだ。金だの銀だの誰が決めるんだ」とか言って、コンクールには参加しなかったんです。いや、もし出場しても銅ももらえなかったでしょうけどね。でもおもしろい仲間が何人もいました。クラリネットが上手くて、ジャズやラテンが好きなやつもいれば、水泳部や陸上部と掛け持ちの男もいる。ぼく自身は打楽器のほかに指揮もして、「展覧会の絵」全曲を取りあげたこともあるんです。高校時代には、音楽の楽しさを満喫しました。

 打楽器で音楽大学に行こうと決めたのは高校3年の春です。でも、親にそう言うと、勘当寸前になるほど怒られました。音楽家は貧乏だからというのです。「そんな道を選んだら、一生結婚もできない、家庭も持てないぞ」と諭されました。立川高校はいちおう進学校ですから、医学部にだって一流大学の経済学部にだって行かれる可能性があったでしょう。それを一時の気の迷いで……という気持ちだったのでしょうね。でもぼくの決心は堅かった。指揮科を選ぶのじゃないかと思った友だちもいましたけれど、楽器を演奏する方が圧倒的に楽しいと思いましたし、今もそう思っています。ともかく、どうしても音楽大学へ行きたいと、親に毎日のように頼みました。それが本当はうれしかったのかもしれません、しまいには許してくれました。

 それから、父は自分が勤めていた国立音楽大学の打楽器の先生を紹介してくれました。それが岡田知之先生です。中学高校とN響は定期会員になっていつも聴きに行っていましたから、憧れの人でした。習い始めたのは6月か7月。レッスンに行ってまず言われたのは、「なかなか筋がいいな。きみの先輩が上手なんだね」ということでした(笑)。半年のレッスンで、明くる年、国立音大になんとか合格……立高さまさまです。英語国語がいい点だったから受かったようなもんで。大学では、子どものころから知っている父の同僚の先生方がたくさんいらして、みなさん「透くん、透くん」とよくしてくださったので、何をするのも楽しかったですね。みんな親の七光りなんですけど。

 
N響は、植松さんにとってどういうところですか。

 N響に入ったのは、吉川武典くんよりもちょっとあとです。N響では、初めのころ、大学と違って厳しいことの方が多かったですね。身体中で教えていただきました。学生時代からエキストラとして出演していましたが、その10年ほどの間がことに厳しかった。1回でも間違えたらクビ、ということがわかっていますから。きわめて精度の高い演奏をすることで初めて得られる感動というものがあることを、初めて知りました。それはもちろん正確なテンポや音程、タイミングということもありますが、でもそれ以上に大事なのは、「お前は何をやりたいんだ?」ということでした。自分がどう演奏したいのかという主張をはっきりさせないと、けっして許してもらえないのです。そういうことを指揮者からも楽員からも要求されました。

 でもN響にエキストラとして出られるようになって、いちばんうれしかったのは、それまで客席から見て憧れていた百瀬和紀さんや岡田先生と同じ舞台に乗れたことですね。よく憶えていますけれど、きょう演奏するプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の1曲目。ぼくが前列で小太鼓、後ろに百瀬さんがティンパニ、今村さんがシンバル、岡田先生が大太鼓で控えていた。合わせるのがとても難しい、出だしの「ダーッ」というのがぴったり合ったんですよ。ご存じのようにN響は、「せーの、はい」で出るオーケストラではありません。それがなぜかぴったり合った。後ろを振り返ると、みな紅潮した顔から湯気が出てる(笑)。先輩方も緊張するんだぁってね、なんか嬉しかったです。
 エキストラとして50回以上も出演し、「ボレロ」の小太鼓を何回も叩くという経験を経たあとで、N響のオーディションを受けることになりました。N響で打楽器のオーディションを行うのは25年振りのことだったそうです。そこで演奏したのが、きょうと同じジョリヴェの協奏曲の第4楽章でした。ちょっと先輩の吉川くんも聴いていたはずですが憶えていないんじゃないかな。ともかく、演奏が終わっても聴いていた楽員の方から何の反応もない。「あれっ、終わったの?」という感じ。ひゅ〜木枯らし。岡田先生が飛んできて、すごい勢いで怒られました。「何だ、あのでかい音は! もっと上品にやらんか。絶対落ちるぞ」って。でも運良く受かったんです。その後、ベルリンへの留学を経て、型を破って、もう少し自由に自分らしい演奏ができるようになりました。

 打楽器奏者では、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団から交換団員としてN響へ来ていたペーター・ゾンダーマンさんに惹かれました。ティンパニの音ひとつでオーケストラが一変してしまうほど素晴らしかった。指揮者では、ホルスト・シュタインさん。誰よりも厳しくて怖かったけれど、そこを乗り越えると、誰よりもいちばん誉めてくれて、同じ仲間として扱ってくれました。それが何よりもうれしかったですね。

 
(聞き手 鈴木 克巳)

 

植松徹
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植松徹
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