映画「ロミオとジュリエット」を続けて3回、見に行きました。

菅原恵子さんに聞く
(2022年1月16日 第44回定期演奏会プログラムより)

 

子どものころの思い出をお聞かせください。

 小学校2年生のころです。うちの近所に、めちゃくちゃピアノのうまい女の子がいました。その子がピアノを練習しているのを聴くのが大好きで、毎日うちに帰ってランドセルをバンと放り出すと、宿題もしないでその子の家に行って、夕方までずうっと聴いているんです。そのうちに曲を憶えてしまって、楽譜もなしに、うちにあった小さなオルガンで同じ曲を弾いていました。クーラウのソナチネとか、ブルクミュラーの練習曲とか。学生時代に聴音の成績が割によかったのは、そんな経験のせいかもしれませんね。

 
どんなお宅だったのでしょうか。

 宇都宮市の生まれです。父は県立高校の物理の教師。母は専業主婦でしたが、音楽が好きで、巖本真理弦楽四重奏団を聴きに行ったりしていました。わたしが生まれるとき「音楽の好きな子になってほしいな」と思っていたそうです。小学校5年のときに合奏部に入り、わたしはすぐにトランペットを選びました。テレビで、ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」というのを聴いて、かっこいいなと憧れていたからです。まもなく3万円くらいの楽器を親に買ってもらって、夢中で練習しました。林間学校のときに起床ラッパを吹かされたこともあります。
 そのころのレコードは高価なもので、なかなか買うことができませんでしたけれど、兄の持っていた数少ないレコードを、当時、流行っていた横溝正史を読みながら、擦り切れるまで聴きました。憶えているのは、 チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」です。大好きな曲だったのに、プロの奏者になってからは、この曲とは縁が薄くて、たったの2回しか演奏したことがありません。なぜかいつも降り番になってしまうんです。それからフルートのソロの曲で、ドビュッシーの「シリンクス」は、横溝さんの「悪魔が来たりて笛を吹く」の雰囲気にぴったりの曲です。

 
中学校へ進まれてからは。

 中学の吹奏楽部でもトランペットは続けましたが、低い声の女子が少なかったため、合唱部からも誘われて、掛け持ちで活動しました。ここの合唱部はなかなか優秀で、NHK合唱コンクールの関東甲信越大会で1位になりました。高校はふつうの県立高校に進もうと思っていたところ、担任の先生から、音楽大学の付属高校を受けるよう勧められました。そこで自分の気持ちに気づかされて、トランペット専攻のコースに入学しました。ところが、入ってみると、トランペットの先生が「女には無理だ」とおっしゃるのです。仕方なく転向することにして、高校から始めても間に合いそうなオーボエとファゴットを考えました。たまたま先に、当時N響にいらした山畑馨先生のレッスンを受けたところ、「ファゴットにしなさい」と言われて、進路が決まったのです。
 どうしてこんなに面倒くさい楽器を選んでしまったのかと後悔しました。トランペットは指を3本動かせば足りるし(笑)、掃除や片付けも簡単。それに引き換え、ファゴットはキーが28か所もあって、指使いが超難しい。リードも削らなくてはいけないんですから。山畑先生は面白い先生ではありましたが、高校生にとって理解不能な教え方をなさるかたでした。決してストレートにものを言いません。遠くの方からぐるっと――風が吹けば桶屋が儲かる的な――言い方をなさるのです。レッスンはぜんぜん意味が分からず、山畑先生のいない大学へ進学しようと密かに思っていたら、露見してしまって叱られて、武蔵野音大に進むことになりました。

 
大学へ入ったあとは。

 大学で山畑先生と先輩たちとのやり取りを聞いて、ようやく先生の教え方が少しわかってきました。要するに、自分で考えることを大切にしなさいということなのです。一から十まで、手を取るように教えてしまうと、卒業したあと伸びないことがあります。山畑先生は、日本のファゴット界の草分けともいえる方で、現在と違って情報が乏しい中で、手探りで研究しながら演奏していらしたのです。例えば、レッスンで、音がスムーズに跳躍できない個所について質問すると、先生の練習が始まってしまいます。いろいろな指使いを試したりして、10分以上、ああでもないこうでもないと一人で吹いていらっしゃいます。わたしは置いてけぼり。こういうふうに練習するのだということを、教えていただいたと思います。
 大学1年の秋、ドイツでの留学から帰国したばかりの岡崎耕治先生(元N響首席)のリサイタルを聴いて、全身の毛が逆立つような衝撃を受けました。サン=サーンスのソナタなどでしたが、ファゴットって、こんなにすごい楽器だったのかと感動しました。次の年から、岡崎先生に教えていただけることになって、うれしくて、毎晩10時まで大学に残ってファゴットを吹きました。先生も、ドイツで学んだことを、最初の弟子にすべて教えるんだという意気込みを持っていらっしゃいました。

 
プロの演奏家になってから。

 大学を卒業して、新星日本交響楽団に入りました。海外のバレエ団の仕事がたくさんあり、ボリショイ・バレエ団やレニングラード・バレエ団と日本全国を回りました。当時の日本のバレエ団は、踊り手の技量に合わせて不自然にテンポを緩めたりするのですが、ロシアのバレエ団ではそんなことがなく、まだ若かったヴァレリー・ゲルギエフなど、マエストロの指示する音楽的で理想的なテンポで演奏できるので素晴らしかったです。白鳥の湖、ジゼル、ロミオとジュリエット、どれも最高でした。
 その後、東京シティ・フィルを経て、1995年にN響に入りましたが、とにかく周りのみなさんが厳しかったです。音楽的な指摘はもとより、「女に管楽器は無理だ」と全否定されることもありました。けれども、きちんと助言をしてくださる人もたくさんいましたし、ここでN響をやめたら、イコール、音楽をやめてしまうことだと思って、なんとか続けてきました。N響に入って、「引き出し」をたくさん増やすことができました。一流のプレイヤーがたくさんいるので、練習中にも感動したり、自分にはない発想で演奏するのを聴いたりすることができたからです。
 素晴らしい指揮者やソリストにも出会えました。指揮者では、断然エフゲニー・スヴェトラーノフさん。棒のテクニックではなくて人間性ですね。ものすごく暖かい人でした。いっさい偉ぶることがなくて、お茶目で可愛らしいんです。「ルスランとリュドミラ」の練習のとき、ニヤッと笑って「ぼくのは速いよ」と一言。オーケストラは「よ〜し! 受けて立とう」と集中力全開。いい時間が流れます。そして中間部の優雅に歌う個所では、意外にもいきなりピアニシモに抑えられる。常にいろいろな球を投げてくるんです。飽きることがありませんでした。

 
ニーノ・ロータのファゴット協奏曲を選んだのは。

 小学校3年生のころ、初めて友だちと見にいった映画が「ロミオとジュリエット」でした。イタリアの中世の街並や衣装、ニーノ・ロータの音楽に、とっても強く印象づけられました。続けて3回、見に行ったほどです。舞台となったイタリア、ヴェローナのジュリエットの家にも行きました。できることなら、車もアルファロメオの「ジュリエッタ」に乗りたいくらいです。その後、ニーノ・ロータはクラシックの作曲家で、ファゴット協奏曲もあることを知りました。この曲は、オーケストラも楽しそうだということも、選んだ理由です。終楽章の変奏曲には、中世の街並み、石畳み道、街角の道化を思い描けるようなフレーズがあったりして気に入っています。

 
(聞き手 鈴木 克巳)

 

 

 

 

 

練習風景 ソリストとインタヴュアー

 

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/