「シベリウスの交響曲第6番、大好きです」

吉川武典さんに聞く
(2023年2月19日 第46回定期演奏会プログラムより)

 

シベリウスという作曲家との出会いは。

 初めてシベリウスの曲を聴いたのは、中学1年の夏でした。香川県の高松市内で開かれた吹奏楽のコンクールで、よその学校の団体が「フィンランディア」を演奏したのです。いやあ、かっこいいし、すごい曲だなあと感心しました。中学とか高校の時代には、次々に新しい名曲に出会うたび、嬉しかったです。1曲ずつ曲を知っていくという、人生の歓びですね。その中でも特に記憶に残る「フィンランディア」との出会いでした。
 それから、親にねだってシベリウスのLPレコードを買ってもらって聴きました。交響曲も作曲していることを知って、かなり早い段階で交響曲全集を買ってもらいました。全部で7曲あるうち、第4番以降をカラヤンが指揮していて、第1番から第3番までをオッコ・カムというフィンランドの指揮者が振っているグラモフォンのレコードでした。第1番から順番に聴いていきました。第7番にはトロンボーンのソロがあって、魅力的でしたけれど、中でもいちばん好きになったのは第6番でした

 
交響曲第6番との関わりは。

 第6番の第1楽章の出だしの美しさは、ほんとに素晴らしいです。そして第4楽章の最初のところから、終わりへ向けての感じがなんとも気に入りました。何度も繰り返し聴きました。ほかの指揮者のレコードも集めました。そのころ、高松市のヤマハへ行ってスコアを探しました。フィンランディアは日本の出版社から出ているのですぐに手に入りましたけれど、交響曲は棚にないものが多くて、もちろん第6番もありません。船便で3か月かけて取り寄せてもらって、ハンセン版のスコアをやっと手にしました。中学2年のときだったでしょうか。それからは、スコアを見ながらレコードを聴くのが楽しみになりました。
 ところが、ぼくは新日本フィルに5年とN響に30年、併せて35年も在籍しているのに、第6番はほとんど演奏する機会がありませんでした。N響で2回だけ。10数年前にオリ・ムストネンの指揮で、数年前にパーヴォ・ヤルヴィの指揮で採り上げただけです。そんなわけで憧れが強くて、ブロカートフィルでも、いつか演奏してみたいと思っていました。おそらく団員のみなさんから、演奏したいという意見が出てくることはないだろうと思って、今回、ぼくの希望をかなえさせていただいたわけです。

 
交響曲第6番の魅力とは。

 第6番の第1楽章の冒頭には、弦の高音域から始まってフルートとオーボエに受け継がれる和音の流れるような、人間離れした美しさがあります。この曲は、ニ短調と表示されています。けれども、実際は、中世のキリスト教会のグレゴリオ聖歌などでよく使われた旋法のドリア調にもとづいているのです。ふつうの長調の音階は、ドレミファソラシドですし、短調の音階はラシドレミファソラですよね。ところがドリア調の音階は、レミファソラシドレなのです。半音のある場所が音階の2番目と3番目の間、6番目と7番目の間になっています。つまり音階を真ん中で区切ると、前半と後半とがシンメトリーになっているのです。西洋音楽のいろいろな場面で、わたしたち東洋人の根っこにないものに遭遇しますけれども、これもそのひとつでしょう。日本人である自分の中にある、演歌や村祭りのお囃子とはまったく違います。神の世界への憧れを音楽で表現するとき、シンメトリーを追求したのでしょうか。この曲を実際に聴いてみると、長調とも短調とも違う、不思議な雰囲気が感じられます。長調や短調が人間の感情を表現するとすれば、ドリア調はそのどちらでもないものを表現しているのでしょう。神への想い、天上へ向かおうという意識があったのでしょうか。
 ところでシベリウスがこの交響曲第6番を初演したのは、1923年の春でした。今年がちょうど100年目に当たるのです。

 
シベリウスの音楽の特徴は。

 シベリウスの音楽は、ほかの誰とも違う独特のものを感じさせます。けれども、彼はほかの音楽家たちと広く交流していたのです。例えば、ウィーンに留学していた時代には、ブルックナーに深く傾倒していましたし、交響曲第1番を作曲するきっかけになったのは、ベルリンでベルリオーズの幻想交響曲を聴いたことでした。また、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の初演に接して感銘を受けてもいます。マーラーとの間では、「お互いに新しい交響曲を発表すると、それまでの支持者を失いますね」ということで共感しています。ドビュッシーやシェーンベルクとも交流があり、バルトークやショスタコーヴィチについては、「才能のある作曲家だ」と評価していました。バッハやベートーヴェンの頃と比べると、1865年生まれのシベリウスの生きていた当時は、音楽家同士の行き来や楽譜の流通がはるかに盛んになっていたのでしょう。
 シベリウスは人間的な弱さをも抱えた人でした。酒を飲みすぎ、煙草を吸いすぎて、奥さんのアイノさんとしばしば喧嘩していたという下世話な話もあります。酒を飲んで喧嘩して、留置所に入れられたこともあったようです。
 彼はまた自然を愛していました。自宅があったのは、ヘルシンキの北100キロほどのところにあるハメーンリンナという小さな町ですが、夏休みはいつも、父方の伯母の住んでいた海辺の街ロヴィーサで過ごしました。のちにシベリウスは語っています。「ロヴィーサは私の太陽であり歓びだった。ハメーンリンナは学校に通うだけの場所で、ロヴィーサには自由があった」と。

 
交響曲第1番と「カレリア」組曲の聴きどころは。

 シベリウスは、交響曲第1番を作曲する前に、フィンランドの民族的叙事詩「カレワラ」に登場する英雄を題材にした、クレルヴォ交響曲を書いています。交響曲第1番に着手したのは1898年、32歳のときですが、このころ、ロシアはフィンランドから自治権を奪って、支配を強めようとしていました。そこで第1番には、ロシアの圧政に対して戦おうとする英雄の姿が感じられます。第1楽章の始まり方は、この曲もたいへんユニークです。ティンパニのトレモロのあと、哀愁のこもったクラリネットの長いソロが続きます。そしてアレグロ、6/4拍子の主部は、第2ヴァイオリンのソとシの刻みの上に第1ヴァイオリンの主題が登場します。目の前に美しい自然のパノラマが広がってくるような音楽です。自然を愛していない人からは生まれない作品でしょう。第2楽章にはたいへん温かい心を感じます。ほんとうに優しくて、心がいやされます。第3楽章も変わっていますが、第4楽章の後半に初めのアンダンテの旋律が再び姿を現すところは、ものすごく感動的です。この盛り上げ方というか、組み立て方は見事だと思います。ぼくが初めてブロカートフィルを指揮したときに、やはりこの第1番を採り上げたのですが、去年の春、ファゴット協奏曲を吹いてくれた菅原恵子さんに、「第4楽章、感動しましたよ」と言っていただきました。演奏には拙いところもあったかもしれませんが、曲の素晴らしさを伝えることはできたのでしょう。
 マーラーの交響曲は後期になるにしたがって規模が大きくなっていますが、シベリウスの場合は、逆です。第7番は、ついにたったひとつの楽章にまとめられてしまいます。人生の締めくくりということでしょうか。その先はもうあり得ないということでしょうか。交響曲第8番に取り組んでいたと言われますけれども、その断片は自ら燃やしてしまったようです。
 今回、いちばん初めに「カレリア」組曲から「行進曲風に」を演奏します。行進曲というものはたくさんありますが、感動させられる曲というのは、なかなかありません。でもこの曲はいい曲です。付点のついているリズムに乗せられたシンプルなメロディが成功していると思います。第6番があまり知られていない曲なので、馴染みのある曲をまず聴いていただこうという意図なのです。

 
フィンランドへいらしたのですか。

 フィンランドへは、2019年の夏、ヘルシンキの北東500キロほどのところにあるリエクサという街へ行きました。ブラスウィークという国際音楽祭に、ぼくの所属しているN-craftsという金管五重奏の団体が招かれたためです。教会や屋外で演奏会を行い、若い人たちのレッスンもしました。ホテルから30分ほど歩いたところに湖があり、対岸に森が広がっていました。そのとき撮った写真をもとにした絵が、今回の演奏会のチラシに使われています。この辺りは、コリ国立公園といって、カレリア地方の一部で、それこそ森と湖がたいへん美しいところです。空港からリエクサの街までの間、深い森や大きな湖のあるところを通ったことを憶えています。フィンランドへは、来年の夏にも行くつもりです。
 高松市の商店街で育って、自然といっても近所の小川や田んぼしか知らないぼくにとって、フィンランドの森や湖は、まったく馴染みのない世界です。シベリウスのレコードのジャケットには、そうした大自然の風景が使われていることが多くて、憧れる気持ちをそそられました。

 
シベリウスは、ヴァイオリニストになりたかったとか。

 シベリウスは、ほんとうは、作曲家ではなくて、ヴァイオリニストになりたかったのです。「偉大なヴァイオリニストになるのが私の夢だった。私はペンを持つよりも弓を持つ方がずっと好きだ」と彼は語っています。でも、シベリウスがヴァイオリンをきちんと習い始めたのは、15歳のときでした。それでは、ヴィルトゥオーゾを目指すのは、とても無理でしょう。姉のピアノや弟のチェロと室内楽を楽しみ、小さなオーケストラで第2ヴァイオリンを弾いていたこともあります。けれどもウィーン・フィルのオーディションには落ちてしまいます。プロのヴァイオリニストになりたいという夢は破れて、挫折を味わったわけです。とはいっても、彼は、時には喧嘩しながらも奥さんのアイノと仲睦まじく暮らして、6人の娘たちにも囲まれていました。作曲家としても世に認められて、人間的にも幸せな生涯だったのでしょう。ただ、演奏家としてみると、ヴァイオリンの勉強をもっと小さい時から始められなかったのは、取り返しのつかないことで、とってもかわいそうだと思います。もし彼がヴァイオリニストになっていたら、ぼくたちは、彼の素晴らしい作品に触れることができなかったでしょうけれどね。

 
(聞き手 鈴木 克巳)

 

 

トロンボーンと音楽とシベリウスに出会った中学生のころ

金管五重奏N-craftsで
フィンランドの音楽祭に参加

 

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/