「小学校1年のとき、小さいヴァイオリンを手にした瞬間から……」

村松龍さんに聞く
(2024年4月14日 第48回定期演奏会プログラムより)

 

音楽との出会いについてお聞かせください。

 ピアノを習っていた二つ歳上の姉のレッスンについて行って、ピアノの下に潜って遊んだりしていたのが、いちばん古い記憶かもしれません。ただ、父も母も音楽にはあまり縁がありませんでした。埼玉県の鶴ヶ島というところに住んでいましたが、父は中学校の美術の先生をしていましたし、母も美術大学を出てデザイン関係の仕事をしていました。石膏でできた女性の胴体の像とか、ベートーヴェンのデスマスクなどもありましたね。なぜかうちにお琴がひとつありまして、小学校1年のとき、そのお琴との交換で小さいヴァイオリンをもらったのです。それがきっかけで、近所の先生についてヴァイオリンを習い始めました。
 先生はうちに来て教えてくださったのですが、レッスンのあと、母が買っておいたケーキを一緒に食べるのが楽しみでした。練習はあまりしませんでしたね。母が聴いているので、エチュードの最初と最後だけ5回弾いて、遊びに出かけたりしました。でもヴァイオリンを弾くこと自体は好きで、鈴木メソッドの練習曲の入ったCDを大音量でかけて、それに合わせて弾いたりしていました。
 小学校2年か3年の誕生日に、先生がCDをプレゼントとしてくださいました。ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番や、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番などをサルヴァトーレ・アッカルドが弾いているものでした。これが初めてのふつうのCDでした。すごく気に入って、何度も何度も聴きました。それからは親にCDを買ってもらうようになりました。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲などでしたが、パールマンやクレーメルなどいろいろな演奏家のものを聴き比べて、楽譜を見ながら、ルバートの個所をそっくりまねたりして一緒に弾きました。中学に進んでからは、ハイフェッツやオイストラフなど、巨匠が大好きになりました。

 
ヴァイオリンが大好きだったのですね。

 小学校5年のとき、東京音楽大学附属の子どものための音楽教室に姉と一緒に通い始めました。そこで初めてほかの先生に教わることになりました。このころから、練習するのが好きになりました。それで5年生のときに全日本学生音楽コンクールに出場しました。本選にはぼくよりもひとつ上の庄司紗矢香さんとか、上手な子がいっぱいいて、みんなすごく練習しているんだと驚きました。明くる年にもこのコンクールに出場して、幸い第2位になることができました。このとき出場した人たちは、今でもいろいろなところで活躍している人がたくさんいます。コンクールを通じて、音楽の世界を身近に感じるようになったんです。それから、習っている先生の演奏会を聴きに行ったり、有名なヴァイオリニストの公開レッスンを見に行ったりしました。
 ヴァイオリンを弾くことはずっと大好きでした。小学校1年のとき、小さいヴァイオリンを手にした瞬間から、ヴァイオリニストになろうと決心していたのかもしれません。そのころ、「アマデウス」という映画を見ました。その中の、モーツァルトが作曲をするシーンを真似して、羽根ペンを作って五線紙になぐり書きに楽譜をかいて、ピアノの調律師さんに見せると、「天才だね」と言われました。もちろん曲になっているようなものではありませんでしたが。また、家族や調律師さんをお客さんに見立てて、ホームコンサートのようなことをしましたね。姉はいつも照れくさそうにしていましたが。

 
ヴィオラを手にしたきっかけは。

 大学の授業で、楽譜の読み方を勉強するソルフェージュというのがありましたけれど、ハ音記号が読めませんでした。そこでヴィオラを始めたら読めるようになるのではないかと思って、オーケストラの授業でヴィオラを弾くことを始めました。1年生か2年生のときだったと思います。楽器は大学のものを借りて、たしかブランデンブルク協奏曲の第3番を演奏しました。ただ、当時はきちんとさらってくる人が少なかったためもあって、オーケストラの授業には魅力を感じませんでした。そこで、代わりに弦楽アンサンブルの授業を選んで、夢中でヴァイオリンを弾きました。
 大学3年のとき、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーの方々が指導する室内楽勉強会が、奥志賀高原で2週間、合宿の形で開かれました。オーディションを受けて、ヴァイオリンで参加したのです。ここで出会った仲間たちには驚きました。みんな朝から晩までさらっているのです。チェロのソリストになった宮田大くんとか、N響のチェロの辻本玲さんとか、いろいろなかたと知り合いました。オーケストラが俄然面白くなりました。室内楽でヴィオラも担当するようになりました。
 ヴィオラに転向したいと思って、ヴァイオリンの先生だった久保陽子さんに、店村眞積さんを紹介していただいて、レッスンに行きました。「ヴィオラとヴァイオリンの両方を弾きたいんです」と言いましたら、「どちらか一つにしなさい」と叱られました。そこで持っていたヴァイオリンをすぐに売ってしまいました。

 
どんないきさつでN響へお入りになったのでしょう。

 大学を出てからすぐに就職するつもりで、N響に入りたいと思いました。ところが、ヴィオラで弾ける曲がひとつもないのです。ちょうどN響アカデミーがヴィオラを募集していたので、バルトークの協奏曲の第1楽章とホフマイスターの協奏曲を練習して受験して、幸い受かることができました。N響アカデミーというのは、楽員のかたのレッスンを受けたり、練習や演奏会を見学したりすることができて、もし空きがあれば演奏会に乗ることもできるというものです。ここで、オーケストラがこんなにおもしろいものだということを、初めて知りました。
 初めて演奏会に乗せていただいたのは、外山雄三さんの指揮で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番とベートーヴェンの交響曲第5番でした。初めてのプロオーケストラは衝撃でした。自分が弾く音は、すべてみんなの音からはみ出ているように感じられて、どうしても合わせられませんでした。でも、アカデミーで2年半勉強して、N響に入ることができました。

 
バルトークのヴィオラ協奏曲を選んだのは。

 ヴィオラの協奏曲というのは、あまり多くありません。代表的なものは、バルトーク、ウォルトン、ヒンデミットくらいでしょうか。ホフマイスターやシュターミッツのは編成が小さいので、なかなか採り上げにくいでしょう。バルトークは自分に合っているかなと思っていて、N響アカデミーのオーディションのときを含め、何かの機会によく弾いていました。N響に入ってからは、経済的に少しゆとりもできて、ヴィオラのいろいろな曲を練習しました。お休みをいただいて、海外のコンクールを受けに行って、バルトークを弾いたこともあります。バルトークの国ハンガリーは、ヨーロッパの中でも少し変わっていて、アジア系ですから、日本人に通じるところがあるように思います。アクセントの付け方とかに、日本人に近いものがあるのではないでしょうか。
 バルトークは、この曲の独奏部分だけを書いて亡くなりましたが、「オーケストレーションはシンプルに」というバルトークの遺志を生かして、作曲家シェルイが補筆して完成させたものです。バルトークのほかの管弦楽作品と比べると音が少ないように感じますが、ヴィオラの協奏曲としてはその方がいいように思います。
 中学生や高校生のころ、ぼくは派手なことが好きで目立ちたがりやでした。当時原宿で流行っていた派手なファッションを見に行ったり、ヴァイオリンをいかに派手に弾こうかと考えたりしていました。ところが奥志賀高原での合宿で、内声に興味を持つようになりました。室内楽でも、それまでファーストヴァイオリンばかり弾いていたのが、セカンドヴァイオリンやヴィオラを受け持つようになって、内声の楽しみを知りました。おとなになったということかもしれません。ヴィオラという楽器は、音楽の情景を力ずくで変えることはけっしてしません。柔らかい方法で変えていって、さりげなく場面を変化させることができるのです。そしてそれは、人に対する思いやりや、やさしさが大切だということと同じではないでしょうか。

 
(聞き手 鈴木 克巳)

 

練習風景

 

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/