*ブルックナー 交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(2014年9月21日 第33回定期演奏会プログラムより)

 アントン・ブルックナー(1824–1896)というと、交響曲の作曲家というイメージが強い人も多いのではないだろうか。通し番号のない習作から未完の第9番まで、長大で深遠な交響曲を愛するファンは国内外ともに多い。しかし、ブルックナーが交響曲第1番を作曲したのは42歳のとき、交響曲が初めて成功をおさめたのは第4番第2稿が初演された57歳のとき。交響曲作曲家としてはじつに遅咲きである。

 ブルックナーは、ベートーヴェンが第九交響曲を作曲した1824年、オーストリアの小さな田舎町アンスフェルデンに生をうけた。教師であった父の指導のもと、歌、ヴァイオリン、ピアノ、オルガンなどを学び、幼少から優れた音楽の才能を発揮した。12歳のころには、病に倒れた父に代わってヴァイオリン演奏で家計を助け、父の死後は少年聖歌隊の歌い手として修道院に引き取られている。16歳からは父と同じ教師を目指し、算数、地理、語学、宗教、そして音楽を学んだ。当時の教師は、学校での指導のほかに、教会音楽も引き受ける必要があったのだという。

 教師となってからも音楽の研鑽を積み、リンツ大聖堂のオルガン奏者、男声合唱団フロージンの指揮者、ウィーン音楽院の教授と着実に音楽家として身を固めていく。ことにオルガン演奏には秀でており、ある採用試験の審査員が「彼が自分たちを試験すべきだった」と述べたほどである。現代日本に住む私たちには想像しにくいが、19世紀のヨーロッパで、教会に置かれたパイプオルガンを誰よりも巧みに操れるということは、このうえなく素晴らしいことだったに違いない。作曲家としての最初の大きな成功は、40歳のときに初演されたミサ曲第1番であろう。この成功を祝って友人から送られた月桂樹と繻子のリボンを、彼は終生大切にした。リボンには友人の手による刺繍がほどこされている。「かつて神より出でし芸術は神へと戻らねばならぬ」。

 ブルックナーは改訂魔と呼ばれることがある。作品を完成させたのちも、さまざまな理由で楽譜を改訂することが多かったのである。修正と呼べる範囲のものもあれば、大掛かりな入れ替えとなることもあった。その要因は、自身の完璧主義のためだったかもしれないし、評論家、指揮者、後援者たちが丁々発止とせめぎ合う音楽界に翻弄されたからかもしれない。さらに弟子たちや国際ブルックナー協会が楽譜に手を入れたことにより、版問題はいっそう複雑になっている。この交響曲第4番も例外ではなく、大まかに分けても第1稿、第2稿、第3稿とあるが、本日は1878/1880年の第2稿に基づく楽譜を使用する。ブルックナーが知人宛の手紙の中に「ロマンティックな交響曲」と記したため、今日でもロマンティックと呼ばれて親しまれている。

 第1楽章は朝の情景から始まる。「完全な夜の静けさのもと、町の庁舎から一日の開始を告げるホルンが鳴り響き、それから生活が始まります」。
 第2楽章は深い森を連想させる。色濃く苔むした岩、蒼々と茂った木々の合間から漏れる柔らかい陽の光、あたたかく親密な空気。ブルックナーは「歌、祈り」と書いている。
 第3楽章は狩の風景。馬たちが疾走し、狩人は次々と獲物を仕留めていく。「食事の間に狩人たちの前で舞曲が演じられた」あとは、また狩が始まる。躍動感溢れるスケルツォとなっている。
 第4楽章は、「楽しく過ごした一日のあとに突然降り始めた驟雨だ」と語ったと伝えられている。この終楽章には、人智の及ばない神聖な力が感じられてならない。1時間を越える堂々たる交響曲は、神々しい光に包まれて幕を閉じる。

 ブルックナーは敬虔なローマカトリック教徒だったといわれている。彼は11人兄弟の長男として生まれたが、無事に育ったのはそのうちの5人の子供だけ。当時は珍しくないことだったのかもしれないが、幼い弟妹が、そして父が次々と亡くなっていくさまを目の当たりにし、特別な宗教観と死生観がブルックナー少年の心のうちに育っていったのかもしれない。いのちは永遠の神のもとから来て、永遠の神のもとへと帰っていく。

(ホルン 吉川 深雪)

楽器編成 フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、テューバ 1、ティンパニ 1、弦楽5部。

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/