*シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82/交響曲第2番 ニ長調 作品43(2015年4月5日 第34回定期演奏会プログラムより)

フィンランドは目覚める ── シベリウス生誕150周年によせて

 1892年4月、ジャン・シベリウス(1865−1957)はソプラノ独唱、バリトン独唱、男声合唱とオーケストラのための交響曲「クレルヴォ」を発表した。作曲家としては駆け出しのころだったが、人々は大きな期待と関心をよせてコンサートホールに集まり、新作は圧倒的な成功を収めた。フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を題材にしていたからというのが大きな理由だが、もうひとつ、シベリウスが創る音楽が、ドイツやスウェーデン、ロシアといった国のスタイルの影響を強く受けたものではなく、「聞いた覚えのない調べだけれど、それでも、これは古くから我々が知っている、まぎれもないフィンランドの音楽だ!」と感じられたからである。
 フィンランド族がフィンランドの土地に定着したのは、紀元1世紀ごろと言われている。12世紀に入るとスウェーデンの侵略が始まり、1323年には正式にスウェーデンの一部となった。大北方戦争においてスウェーデンがロシアに敗北すると、今度はロシアに割譲されることとなり、1809年、ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国が建国される。建国当初は、独自の議会と政府を有することが認められ、従属国の色合いは薄かったものの、欧州諸国の革命が広がるとともに民族主義が高揚し、独立を恐れるロシア政府の圧力は日増しに強大になっていく。スウェーデン、そしてロシアによる長い支配の中で、人々は「純粋なフィンランドの文化」を心から求めていた。
「クレルヴォ」を発表した年の6月、シベリウスはアイノ・ヤーネフェルトと結婚した。アイノの父はフィンランド屈指の名将軍と呼ばれ、のちに元老院議員となった人物。母はロシア貴族の家系の出という、いわば名門である。文学と音楽を愛する聡明で美しいアイノは、若者たちの人気の的であった。ジャンの父は軍医であったが、当時は今ほど医者の地位は高くない上に、彼が2歳のときに亡くなっており、母や弟妹とともに祖母の家で慎ましく育った。しかも、彼は職業的音楽家! シベリウスが音楽を専門に学ぼうとしたときは、親族中がこぞって大反対したほど、社会的地位も経済力も望めない身分という時代だった。はじめは気後れしていたシベリウスだったが、ヤーネフェルト家が彼の才能を高く評価していたこともあり、ふたりは結ばれ、ハネムーンをカレリア地方で過ごした。そしてほどなく、あれほど好評だった「クレルヴォ」を封印して、演奏することを禁じてしまう。理由は諸説あるが、カレリア地方で真のフィンランドの伝統芸術を感じたことにより、改訂なくしては演奏できないと思ったのかもしれない。シベリウスの自己批判の強さは、この先の、特に晩年の創作活動に大きく影響していくことになる。ともあれ、このときカレリア地方で得たものは、彼の大きな源泉となったことだろう。伝統的素材を元にフィンランドの音楽全体に革命をもたらしてゆくシベリウスは、親族たちの危惧をよそに、国内でもヨーロッパの国々でも日に日に名声を高め、1897年にはフィンランド国家からも認められ、終身年金を受ける「国民的作曲家」となる。

 ところで、シベリウスといえば真っ先に「フィンランディア」を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。この曲は1899年に上演された「報道の日」のための劇「フィンランドは目覚める」の終曲として作られた。重苦しい咆哮がやがて清らかな讃歌となり、高らかに締めくくられるが、のちに中間部の旋律には歌詞が付けられ、今でも第二の国歌として愛されている。初演の年に単独で演奏されるようになったものの、フィンランドでは愛国的な名前が付いた曲を演奏するのが難しく、決まった名前が無いまま、ロシアから遠い国では「祖国」、ロシアの目が光る国では「即興曲」という曲名で呼ばれていた。そこに一通の手紙が届く。それは、この曲を「フィンランディア」と命名するべきだと薦める内容で、差出人はアクセル・カルペラン男爵。この時期からふたりの交際は始まり、男爵は亡くなるそのときまで、シベリウスの音楽を礼賛し、援助を続けた。
 本日のコンサートの後半に演奏する交響曲第2番は、1901年、おもにイタリア滞在中に書かれ、その年、帰国後に完成された。イタリアにおもむくことを勧め、費用などを支援したのもカルペラン男爵である。「イタリアに旅し、カンタービレを学び、調和ある可塑性、弾性、適正を学ぶこと。イタリアに存在する美、そのあり方、あるいは醜悪、そこに見える意味合いが、チャイコフスキーの、そしてリヒャルト・シュトラウスの進歩にどれほど影響したか、学んでほしい」。滞在期間の前半は家族と一緒にジェノヴァに近いラパッロで、後半はひとりローマで過ごした。娘の病気などの困難もあった中、作曲は進められていく。北欧とは全く異なる風土、まばゆいほどの陽射し、咲き乱れる花々、カトリック教会の大聖堂、そして古代から受け継がれてきた豊かな文化などに多くの刺激を受けて誕生した交響曲は、明るい、けれど、この上なくフィンランド色の強い音楽となった。よく留学や仕事などで海外に住む人たちが「離れて暮らすようになったからこそ、いっそう日本のことを想う」と話すが、そういうものかもしれない。

 1904年、一家はヘルシンキの都会を離れ、少し北にあたるヤルヴェンパー地方トゥースラ湖の近くに移る。建てられた家は夫人アイノにちなんで「アイノラ荘」と名付けられ、内戦でいっとき避難した以外は、生涯そこに暮らした。夫婦の危機は何度か訪れたものの(危機の全くない夫婦なんているだろうか!?)、アイノは娘を6人生み、アイノラ荘を整え、巨匠の伴侶として、終生よき理解者、助力者であった。彼女の70歳のときの言葉が印象深い。「この生涯における宿命は私への祝福であり、天からの贈り物だ。私の生活は無意味ではない。彼の音楽は神の泉のように湧き出てくる。私はまさしくその泉のそばで生きているのだから」。自然にあふれ、家族との愛に満ちたアイノラ荘での日々は、作曲家シベリウスに大きな充実をもたらす。彼の音楽は、ヨーロッパだけでなく、アメリカでも高く評価されるようになっていった。
 コンサート前半に演奏する交響曲第5番は、1915年、シベリウスの50歳の誕生祝賀会に合わせて書き上げられた。第一次世界大戦のさなかだったにもかかわらず、祝賀コンサートは国家的な行事としておこなわれ、そのチケットは入手に困難を極めたと伝えられている。「日の光は弱く、冷たい。しかし、春はクレッシェンドで近づいてくる」とシベリウスが記したとおり、希望にあふれ、華やかで祝祭的な雰囲気を持つ交響曲である。行事に間に合わせるために急いで書いたせいもあったのか、のちに2回にわたる大きな改訂がおこなわれることになった。第3稿に着手した1917年、フィンランドはロシア革命の混乱に乗じて独立を宣言し、翌年には内戦が勃発した。シベリウスも内戦に巻き込まれて家宅捜索を受け、いっときは自由を奪われる事態にも陥ったという。さいわい死や逮捕には至らなかったが、こうした苦渋の中で、1919年、本日演奏する最終稿が完成した。

 1924年の交響曲第7番、1926年の交響詩「タピオラ」以降、シベリウスはおもだった作品を発表しなくなった。人々は「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ぶ。アイノラ荘で隠遁生活をしていたわけではない。フランスに出かけて印象派の音楽に接し、国内外の芸術家と交流し、世界中から新作を望まれ、作曲もしていた。しかし、かねてからの自己批判はいっそう強くなり、作品を世に出すことが出来なくなってしまったのである。第二次世界大戦という過酷な状況が、さらなるブレーキを掛けていたのかもしれない。1940年代には大量の自筆譜を燃やしてしまったそうで、その中には交響曲第8番も入っていたのではないかと思われる。実に惜しい話だ。
 シベリウスが生きた時代は、フィンランドにとってたいへん苦しい時代だった。ロシア支配時代、第一次世界大戦、内戦、ソ連との冬戦争とカレリア地方の割譲、ソ連との継続戦争、ドイツ軍とのラップランド戦争、そして1945年、敗戦国として迎えた第二次世界大戦終結。国を離れた人も大勢いたし、シベリウスの身を案じた人たちは、大学教授としてアメリカに招聘しようといくども持ちかけた。それでも彼は祖国から離れることなく、真の独立を、平和を願い続けた。1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラ荘で永遠の眠りにつく。91歳と9ヶ月。ちょうどその時刻、ヘルシンキの大学講堂において、交響曲第5番が演奏されていた。
 彼が新作を発表しなくなってから30年以上経っていたにもかかわらず、葬儀は国葬として執り行われ、数万におよぶ人々が葬列に参加した。長く辛い数十年を、なによりも深く強く、フィンランド国民をひとつに結びつけてくれた人。くじけそうになる心を音楽で鼓舞し続けてくれた人。シベリウスは彼らにとって、剣を持たぬ英雄だったのである。

(ホルン 吉川 深雪)

楽器編成
交響曲第5番 フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、ティンパニ 1、弦楽5部。
交響曲第2番 フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、テューバ 1、ティンパニ 1、弦楽5部。

 

 


 

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