アレクサンドル・ボロディン(1833 - 1887)は、1833年の11月、すでに老境に差しかかっていた公爵ルカ・ゲディアノフを父として、屋敷で働いていた24歳の家政婦アヴドーチャを母として、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。そして、当時の習慣にしたがって、屋敷付きの農奴ポルフィーリ・ボロディンの子として届けられます。というと、ずいぶん可哀想な話かと想像されますが、実際はそうではなく、彼は実の母からいつくしまれ、父公爵の孫たちと一緒にすくすくと育ちます。家庭教師からフランス語やドイツ語、イタリア語を学び、幼いころから多彩な才能を発揮しました。夢見がちで、おとぎ話の世界に浸ることが大好きな子どもで、近所から聞こえた軍楽隊の音楽に魅せられて、ピアノを弾くようになります。9歳のときに淡い恋心を抱いた相手の名にちなんだ「エレーヌ」というピアノのためのポルカを作曲しました。また室内楽を楽しむためにチェロを独習します。このころはメンデルスゾーンに夢中で、13歳のときにはフルートとピアノのための協奏曲を作っています。
けれども彼は化学にも興味を持つようになり、花火を作ったり、電気の実験に熱中したりします。ペテルブルク医科大学を優秀な成績で卒業して外科医として働きますが、まもなく化学の分野での研究のため、ドイツのハイデルベルクに派遣されます。その地で生涯の伴侶と巡り合ったボロディンは、一緒にワーグナーを聴き、その豊かな響きに圧倒されます。
29歳のときにサンクトペテルブルクに戻り、医科大学で教鞭をとるようになります。そのころから、「ロシア五人組」のバラキレフやムソルグスキーとの交遊を経て、交響曲第1番に取り組みます。けれども彼の公務は化学者としての仕事であり、音楽に割ける時間はあまり多くありませんでした。そんな中、歌劇「イーゴリ公」の作曲に力を注いだものの、ついに未完のままに終わってしまいます。
46歳のときに作曲した交響詩「中央アジアの草原にて」は、たいへんな人気を博し、ロシア国外でもしばしば演奏されるようになります。「広漠たる中央アジアの草原から、のどかなロシアの歌が響いてくる。はるか彼方に馬やラクダの足音に混じって東方の歌の調べが聞こえる」。
ボロディンは、リムスキー=コルサコフの弟子たちと知り合いますが、その中でも32歳年下のグラズノフと、ことに親しくなりました。きょうお聴きいただく「小組曲」は、44歳から51歳にかけて書かれたピアノのための小品をまとめた作品で、ボロディンの没後、グラズノフによって管弦楽のために編曲されたものです。1885年、ベルギーのアントワープで開かれた博覧会に51歳のボロディンは招かれました。旅立つ間際に病に倒れた彼は、かなり弱ってしまって、遺言状を書きのこしています。ベルギーへ行く途中、ワイマールに寄って旧知のリストと再会しました。リストには「小組曲」を「恐ろしく気に入ってもらえた」ということです。
「小組曲」は七つの小さな曲でできています。ボロディンはある手紙の中でこの組曲のことを「一人の若い娘の愛についての小さな物語詩」と呼んでいるそうです。以下の「 」内は、ボロディンの没後に発見された標題です。なお、終曲はもともとは「夜想曲」だけでしたが、同じ時期にボロディンが作曲した「スケルツォ」を、グラズノフが前後に加えました。
第1曲 修道院にて。「大聖堂の丸天井の下で彼女は神について考えない」
第2曲 間奏曲。「彼女は社交界を夢見る」
第3曲 マズルカ。「彼女は踊りについて考えない」
第4曲 マズルカ。「彼女は踊りと踊り手のことを考える」
第5曲 夢。「彼女は踊り手のことを考えない」
第6曲 セレナーデ。「彼女は愛の歌を夢見る」
第7曲 終曲。「彼女は満ちたりた愛によって眠りにつく」
(ヴィオラ 鈴木 克巳)
編成:フルート3(ピッコロ2)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、トライアングル、シンバル、タムタム、タンブリン、弦楽5部。 |