チャイコフスキー(1840 - 1893年)は、「白鳥の湖」(1876年)、「眠りの森の美女」(1889年)、「くるみ割り人形」(1892年)と三つのバレエ音楽を作曲している。当時はバレエ音楽の作曲を専門に請け負う職人がおり、その芸術的な評価は低かった。チャイコフスキーのような、交響曲やオペラで成功した偉大な作曲家が書くべきジャンルではないという声もあった。しかし、かねてよりバレエに興味を持っていたチャイコフスキーは作曲を引き受け、そうして、ただのバレエの伴奏曲にはとどまらない珠玉の音楽が生まれることになる。この三大バレエは、現代でもバレエ界における重要なレパートリーとなっている。
「くるみ割り人形」はクリスマスイブにおきた不思議なお話が題材で、クララという7歳の女の子が主人公の可愛らしいバレエ。毎年、冬になると世界中で上演されている。家族で見に行ったことがあるという方も多いのではないだろうか。けれど、バレエ公演ではダンサーに目が釘付けとなり、音楽をじっくり楽しむことはないだろう。しかも、演奏者はオーケストラピットの中。ピットはかなり狭いため、弦楽器奏者の数を減らさざるを得ず、穴蔵のように囲われた空間では音も響きにくい。今回はフルオーケストラでステージに乗り、チャイコフスキーの名曲をじっくりご堪能いただくという趣向である。そして、物語の水先案内人は声優の向殿あさみ氏。これからどんな場面となるのか、どんなことが起きるのか、語りに導かれ、ストーリーを追いながら「くるみ割り人形」全曲を聴くことができるのは、貴重な機会ではないだろうか。
物語のあらすじはナレーションにお任せし、ここでは第2幕に登場する楽器やお菓子にまつわるエピソードを書いてみたいと思う。
チャイコフスキーは知ったばかりの「新しい音」をこの曲に取り入れた。
まずは、フラッター・タンギング。舌を震わせてビュルルル~と音を出す奏法で、独特な演奏効果がある。今では吹奏楽などでも普通に使われているが、チャイコフスキーがキエフで初めてこの奏法を知ったときは、たいそう驚いたらしい。第2幕の2曲目、フルート3本によるフラッター・タンギングの響きに注目だ。
そしてチェレスタ。パリで開発されたばかり、ロシアではまだ誰も知らない楽器を内密に取り寄せた。楽器購入依頼の手紙にはこう書かれていたという。「誰にもこのチェレスタを見せないでほしい、特にリムスキー=コルサコフやグラズノフに見せてはならない。これは絶対に私が最初に使うから」。金平糖の精が登場する場面に使われ、儚く美しい音色を聞かせてくれる。
チョコレート スペインの踊り
チョコレートの原料であるカカオが栽培されるようになったのは紀元前2000年頃! アメリカ先住民はすり潰したカカオを水と混ぜて液体にし、薬としてだけでなく、嗜好品としても飲用していた。16世紀にコロンブスがスペインに持ち帰ったことで、カカオがヨーロッパに上陸。苦味を消すために砂糖や牛乳を入れ、濃厚で甘い飲み物となったチョコレートは、王侯貴族の間で贅沢品としてもてはやされた。ちなみに、私たちが普段食べている固形のチョコレート、「くるみ割り人形」誕生の頃には開発が始まっていたが、まだ一般的ではなかったようだ。
コーヒー アラビアの踊り
6世紀頃、エチオピアのヤギ飼いのカルディが、見つけた赤い実を煎じて飲んだのがコーヒーの始まりといわれている。その後、アラビアを中心に、最初は薬として、次第に嗜好品として飲用されるようになった。「イスラム教徒の飲み物」がヨーロッパに渡ったのは17世紀。最初は抵抗を示していた人々も、ローマ法王がコーヒーを公認したことで、あっという間に広まった。
お茶 中国の踊り
18世紀にフランスでシノワズリ(中国趣味)が大流行した。建築、絵画、陶磁器など東アジアの芸術が珍重され、お茶も嗜むように。チョコレート、コーヒーと同様にとても高価なものだったという。ねじり飴 トレパック ロシアの踊り当時のウクライナはロシア領だったので、ロシアの踊りと書かれているのも間違いではないが、トレパックはウクライナの民族舞踊である。ここに登場するお菓子は、フランス宮廷で食された、ねじり飴という説がある。
ミルリトン 葦笛の踊り
ミルリトンはおもちゃの笛という意味もあるが、もうひとつ、北フランスに古くから伝わる焼き菓子の名前でもある。アーモンドをたっぷりと使った、とびきり美味しいタルト。
ボンボン ジゴーニュおばさんと道化師たち
ジゴーニュおばさんはマダム・ボンボニエールとも言われている。ボンボニエールはボンボン(キャンディなどの砂糖菓子)を入れておく小さな小瓶や缶のこと。ジゴーニュおばさんの大きなスカートの中には甘いボンボンがたくさん詰まっている。
マリーゴールド 花のワルツ
くるみ割り人形の制作中、台本を書いたプティパの愛娘が15歳で夭逝する。あまりの衝撃にプティパ自身も体調を崩し、その後の振り付けと制作監督を部下のイワノフに受け渡した。打ちひしがれる彼の自宅の庭に、突然、マリーゴールドが咲く。娘の魂に違いないと思ったプティパは、作中で最も華やかなワルツに、マリーゴールドを選んだ。キラキラと金色に輝き、太陽に向かって咲くマリーゴールドは「太陽の花」とも言わている。
ドラジェ(金平糖) パ・ド・ドゥ
日本では金平糖という訳が定着しているが、本当はドラジェというフランスのお菓子。アーモンドをピンクやブルーの砂糖でコーティングしたドラジェは、美しく、しかもとても美味しい。たくさん実を付けるアーモンドは多産や繁栄を意味するため、古くから結婚式や誕生日などの祝い菓子として用いられてきた。ドラジェは「幸福の種」という意味も持つ。この演奏会を通じて、みなさまの心の中に、ほんの一粒の小さな「幸福の種」を蒔くことが出来たら......そう願っている。
(ホルン 吉川 深雪)
編成:フルート3(ピッコロ2)、オーボエ2、イングリッシュホルン1、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ、バスドラム、スネアドラム、タンブリン、シンバル、カスタネット、グロッケンシュピール、タムタム、トライアングル、ハープ2、チェレスタ、児童合唱、弦楽5部。 |